【 マイケル・ジョーダン 】
マイケル・ジェフリー・ジョーダン(Michael Jeffrey Jordan, 1963年2月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロフェッショナルバスケットボールプレイヤー、実業家。NBAのシカゴ・ブルズ、ワシントン・ウィザーズでプレーした。その実績からバスケットボールの神様とも評される人物である。
15年間に渡った選手生活で得点王は10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代3位。1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度の年間MVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。現役時代の背番号23はシカゴ・ブルズ、マイアミ・ヒート、ノースカロライナ大学の永久欠番。
2008年現在は、シャーロット・ボブキャッツの共同オーナーの一人として、球団経営に携わっている。
特徴と概要
類まれな運動能力に恵まれ、ジャンプの滞空時間の長さから、「エアー (Air)」という愛称を持ち、空中での動きに非凡な才能を見せた。1992年のバルセロナオリンピック出場、所属したNBAのシカゴ・ブルズを通算6回の優勝に導いたこと、そしてその並外れた技術により世界的な人気を集め、NBAの知名度向上や商業的な成功に大いに貢献した。
1984年と1992年のオリンピック金メダリスト。1996年には、NBA 50周年を記念した「50人の偉大な選手」の一人に選ばれた。1986年、当時のプレイオフ記録となる63得点を上げたジョーダンに対し、ラリー・バードが"God disguised as Michael Jordan."(彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ)と言ったことから、ジョーダンは神(GOD)に譬えられるようになる。
プレイスタイルと偉業
2シーズン弱の引退期間を除き、入団(1984年)から2度目の引退(1998年)まで13シーズンをシカゴ・ブルズで過ごした。主なポジションはシューティングガードだったが、ポイントガードやスモールフォワードもプレイできるオールラウンドな面もあった。
ブルズを退いた1998年の時点でシーズン得点王は10回、通算得点は歴代3位、1試合平均は歴代1位の得点31.5点であり、彼の時代では例外的と言えるほどの高い得点能力を持っていた。インサイドではダンクや独創的な動きから繰り出すレイアップ、アウトサイドではフェイダウェイジャンプシュートなど幅広いオフェンススキルを駆使した。
単に得点能力だけでなく、初期のジョーダンを有名にしたのは豪快なダンクシュートや空中でディフェンダーをかわす技術(ダブルクラッチ)だった。他の選手がまず真似できないような空中でのプレイを数多く見せ、ジョーダン個人が注目を集める大きな要因となった。
そして、何よりも勝負強さを兼ね備えた選手であった。土壇場での活躍は数々の名場面を生み出し、ファンの記憶に残ることとなった。2009年現在まで、ジョーダンと肩を並べられる程の運動能力やスキルを持った選手は極少数ながら見受けられる。しかし、ジョーダンの勝負強さに匹敵する選手は未だ皆無である。
彼は6度のNBA優勝(1991年 - 1993年、1996年 - 1998年)を勝ち取り、5度のレギュラーシーズンMVPに輝いた(1988年、1991年、1992年、1996年、1998年)。1985年はルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得。6度の優勝の機会にはそれぞれファイナルMVPを受賞した。彼はまたレギュラーシーズン、ファイナル、オールスターのMVP3冠を1996年と1998年の2度達成している。他にMVP三冠を達成したプレイヤーは1970年のウィリス・リードと2000年のシャキール・オニールだけである。
またリーグでもトップレベルの優秀なディフェンダーでもあった。1988年以降は引退していたシーズンを除いて1998年まで9回オールNBAディフェンシブファーストチームに選出されている。1988年にはシーズンMVPと最優秀守備選手を同時受賞した。キャリア初期は、その跳躍力に物を言わせガードとしては異例の平均1本以上のブロックショットを記録していた。さらに、キャリア通算で2514スティールは、ジョン・ストックトンに次ぐ歴代2位であり、一試合平均で2.35スティールは歴代3位の記録である。NBAの大物ジェリー・ウェストをして、「ジョーダンのディフェンス能力はオフェンス以上に強烈だった」と言わしめるほどであった。1998年のNBAファイナル第6戦のウィニングショットも攻めるユタ・ジャズのカールマローンからのスティールから生まれた。リバウンドでも一試合平均で6.2本と同ポジションとしては非常に高い数字を残している。
一方で、シューティングガードでありながらも3ポイントシュートは得意とはしていなかった事はあまり知られていない。試投数も少なく、成功数が100本を超えたのは1995-96、1996-97の2シーズンのみである。名だたるシューターの多くがキャリアで1000本以上を記録する昨今において、ジョーダンの通算成功数は581本(レギュラーシーズンに限る)と決して多くはなかった。
生い立ち
マイケル・ジョーダンは、ジェームズ・ジョーダンとデロリス夫妻の三男としてニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで生まれた。とても食欲旺盛で、生後3週間でシリアル食品を食べていたという。少年時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。少年時代には兄にバスケットボールの手ほどきを受けていたが、兄にはなかなか勝てなかった。他には野球やアメリカンフットボールをプレイした経験もあった。特に野球は得意なスポーツの一つで、高校まで続けていた。ちなみに、なぜバスケを始めたかというとただモテたいと思っていたからだそうだ。
地元のE・A・レイニー高校に入学。高校時代に学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードはよく知られている。この挫折を乗り越え、1年後にはチーム入りを果たす。その後は注目を集める選手に成長した。
高校卒業後はノースカロライナ大学(UNC)に進学し、地理学を専攻した。後に伝説のショットとして語り継がれている1982年のNCAAチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導いた。2年次に彼はチームの主力となり、その年に彼は全米ジュニア選抜に選ばれた。3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。
この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された(当時の全体1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンであった。)。
大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。
シカゴ・ブルズ
キャリア初期
入団当初のジョーダンは、高い運動能力と得点能力を持つ期待の新人選手だった。1年目の平均得点は28.2、怪我によりシーズンの多くを欠場した2年目は 22.7点、そして3年目にはスコアリングマシンとなったジョーダンは毎試合高得点をたたき出し、平均得点は37.1点だった。このシーズン、ジョーダンは初めて得点王になったばかりか、平均得点、シーズン総得点3,000点オーバーはウィルト・チェンバレン以来の高い水準だった。
得点能力だけでなく運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せ、若手ながらリーグ屈指の人気選手になっていた。シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。
しかしチームはまだ強くなく、ブルズを「ジョーダンとその他4名」と揶揄する記者やファンもいた。ジョーダンはボールを持つ機会とシュートの本数が多く、独りよがりなプレイを批判する声もあった。
入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に着けて試合することがあり、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった(現在は金属類のアクセサリーは禁止されている。)。1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない(フリーズ・アウト)という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス(当時デトロイト・ピストンズ)とはしばらく良くない関係が続いた。 しかし、トーマスがヘッドコーチを務めた2003年のオールスターゲームで、ファン選出から漏れてしまったジョーダンを最後のオールスターに先発出場させるために、ヴィンス・カーターを説得。カーターはジョーダンに先発の座を譲った。
ピストンズの壁
1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始めた。それに代わって台頭してきたのはデトロイト・ピストンズだった。
一方のシカゴ・ブルズは、若手のダグ・コリンズ監督のもと力を付け始め、プレイオフでも勝ち残れるチームに成長していた。
1987年にセルティックスに敗れた翌シーズンより、ブルズは毎年プレイオフでピストンズと対戦するようになる。この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ、敗退させた。
ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。
コリンズの指導の甲斐あり、ブルズは50勝できるチームにまでなっていた。しかし1988年に続き1989年にもプレイオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズに解雇された。翌シーズン、ブルズはCBA上がりのアシスタントコーチフィル・ジャクソンを監督に昇格させた。
ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。ブルズに加入していた若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレイヤージョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着しており、ブルズはますます手堅いチームになっていた。
しかしプレイオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに敗退した。このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。
最初のスリーピート
ピストンズに敗れたものの、ブルズの選手個々人の成長、そしてチームとしての成長は明らかで、翌1990-91シーズンにはチーム史上最多の61勝を上げていた。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった。(ただし、それでも得点王となっていた。)
プレイオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。
翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の勝ち数67を上げた。再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。ちなみにブレイザーズは、1984年のドラフトで2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった。後にジョーダンは「あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった」と冗談交じりに語っている。
次の1992-93シーズンは、ブルズの勝ち数は57勝と前シーズンより10減らしていたが、プレイオフでは再びNBAファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、チームのエースであり、ジョーダンの親友でもあるチャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれていた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41得点(NBA歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。
1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。
引退と復帰
3連覇後のシーズンオフ、後述の事件により父親を失ったのち間もなく、ジョーダンは1993年9月に突如引退した。全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。引退表明の会見でジョーダンは「もはや証明するものはない」と述べたが、それまで続いていたジョーダンへのバッシング、3連覇によりモチベーションが低下したこと、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。
その後2年間MLBに挑戦した後、MLBのストライキを契機に1995年3月に再びブルズに復帰。メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレイオフに臨んだ。
ジョーダンは2年にわたり野球選手として練習を積んだ後であり、バスケットボールにふさわしい体型を取り戻していなかった。加えて、この頃ジョーダンは32歳になっていた。引退前のように空中を跳躍するよりはむしろ、ジャンプシュートを中心としたオフェンスが目立つようになっていた。
プレイオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。オーランドはシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。
後期スリーピート
1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったという。
ビル・カートライトやホーレス・グラント、ジョン・パクソンは既にチームを去っており、補強としてブルズはパワーフォワードにデニス・ロッドマン、ヨーロッパの最優秀選手としてチームに加入したガード・フォワードのトニー・クーコッチも3年目を迎えて成長を見せていた。
ジョーダン復帰以前に加わっていたロン・ハーパーは優秀なディフェンダーに変貌した。ジョーダン不在の間チームを牽引したスコッティ・ピッペンはリーグでもトップクラスの選手に成長していた。ロッドマンはかつてバッドボーイズと呼ばれたデトロイト・ピストンズの中心メンバーの一人であり、また様々な言動が物議を醸したことがあるため、ブルズに馴染めるかどうかが人々の関心を集めた。
1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、ロッドマンはリーグ最強の3人組として注目を集めた。
ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレイしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。
シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はNBA史上最多であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレイオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。
続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。
プレイオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。初戦のブザービーターや敵地ソルトレークシティーでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。
続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレイするか」が関心の的になっていた。ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの 2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。
ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。
5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。この時、解説者のアイザイア・トーマスは「第4クウォーターのマイケルは殺し屋(killer)だ」と述べた。
ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。現在はシャーロット・ボブキャッツの共同オーナーに就任し、人事、経営に手腕を振るっている。
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